ついに瞑想歴10年! 本当の瞑想とは何か?
きょうは瞑想の最初の伝授を受けた日から10周年の日だった。
(この記事は4/8に上げる予定だったが、なんだかんだで月末になってしまった^p^)
何をするにも10年は一つの区切りだと思うけど、どのくらい瞑想に上達できたかは別として、結構長い期間だったと感じる。
10年前に同じ瞑想をやっていた人たちはもう辞めていたり、別の方法に変えたりしている人が多い。
僕は一時期サボった期間はあったけど、それ以外はほとんど毎日欠かさず一つの瞑想法を続けてきたし、自己流に陥ったり、他の方法に浮気したりすることはなかった。
その点では自信を持ってもいいような気がする。
何年間も毎日欠かさず瞑想するなんて普通はかなりストイックな印象を受けるかもしれないけど、それはちょっと違う。
本当の瞑想は我慢やストイックさという要素はなく、とても快適で疲れがよく取れて、むしろ日々の生活になくてはならないものだ。
ビジネスに没頭していた数年間はあまりスピリチュアルな成長には興味がなかったが、それでも日々の疲れを癒やすために瞑想を必要としていた。
そうじゃなきゃ、10年間も続けられなかったと思う。
最近、googleの社員も瞑想を取り入れたり、ためしてガッテンでも瞑想が取り上げられたりとかなり注目されてきている気がする。
でも、本当の瞑想がどんなものなのかは一般的にほとんど知られていないと思う。
見た目はただ目を閉じて座っているだけなので、瞑想なんてどれも似たようなものに思えるかもしれないが、内側でやっていることは全く違う。
今回は瞑想10周年ということで、僕が瞑想を学んだ経緯と、本当の瞑想とは何かということを書いてみよう。
2008年当時、僕は気功を毎朝一時間くらい熱心にやっていたのだが、瞑想はやらないようにしていた。
なぜかというと、瞑想をすると必ず頭に気が上がってしまったから。まあ瞑想といっても、自己流の瞑想もどきだったが^p^
でも気功でいくら体にエネルギーを貯めても、意識の深い部分までは変えられないということに気付いた。
当時僕は「バシャール」や「引き寄せの法則」にハマっていて、自分が心の底から信じたことは何でもかなうんじゃないかと思っていた。
でも深層意識にはメンタルブロックが潜んでいるのを感じて、それを解放するには表面の意識であれこれ画策しても無理で、無意識領域にアプローチする方法が必要だと感じた。
我ながら良いところを突いてるとは言える^q^
それで、ネットで良さそうな瞑想の先生を探そうと思って、シンプルに「瞑想」と検索してトップに出てきたのがAさんのサイトだった。
たしか他のサイトを見て回ることはほとんどせず、Aさんのサイトの説明を読んで「これが良さそうだな」と思った。
他の何かと迷った記憶は一切ない。これは今考えるとかなり不思議な気がする。
瞑想伝授の当日は台風か?というくらい激しい暴風雨だった。これは神の祝福だったと今では思っている。それくらい、この日は僕の人生の大きな転機になった。
Aさんはお世辞にも愛想が良いとは言えなかったが、話しながらふいにニコニコと笑顔になったりして、かなり浮世離れした印象の人だった。
瞑想伝授の前にインド哲学や「瞑想とは何か」ということを、息継ぎも間に合わないほどの勢いで説明してくれた。
インド系の瞑想の門を叩いておきながら矛盾してるのだが、この時の僕はインドの精神世界特有の考え方を受け入れられなかった。
特に、霊的な修行はより高い境地にいる師の力がなければけっして成功しないという考え。
これは、当時の僕が傾倒していた西洋的なスピリチュアルの教えで「個」の力が重視されているのとは真逆の考えだと言える。
Aさんが言うには、瞑想の体験は古代から師から弟子へと脈々と受け継がれてきたもので、自分一人でいくら瞑想してもけっして悟りの体験を得ることはできないという。
じゃあ、一番最初の人はどうやって悟ったんですか?と聞くと、
ああ、それは古代のリシと呼ばれる聖者たちが何生もかけてずっと瞑想しつづけてやっと到達できた境地なんです。だから自分の力では絶対に無理です。
そう言われても今ひとつ納得できなかったが、実際に瞑想の伝授を受けてしばらく続けていると、彼の言っていることは正しいと認めざるを得なくなった。
一人で自己流の瞑想をしていた時とは全くの別物だったからだ。
ここでやっと本題だが、じゃあ本当の瞑想とは一体どんなものなのか?
インドの聖者の教えではこの世界の全ては幻で、真我(ブラフマン)と呼ばれる永遠の意識だけが存在する。
瞑想の本来の目的は、自分の内側にその真我(ブラフマン)を発見することだ。
それは「何もない」という体験だとAさんは表現していた。
でも、その「何もない」という状態はこの世界では経験できないものなので、瞑想してもそれを理解することは生半可なことではないという。
空間の中に何もないのではなく、空間も自分自身も消えるという理解を超えた意識状態なのだ。
そうするとブラックホールみたいな真っ暗闇を想像するかもしれないけど、実際には明るさと至福感を感じる。
それがブラフマンの性質なのだ。
真我(ブラフマン)を認識して、その状態にとどまることを「サマーディ(悟りの体験)」という。
おれ? 10年瞑想してるけど、いまだによく分からないよ^p^
で、じゃあなぜ悟りの体験が大事かというと、理解できなかったとしてもブラフマンに意識が触れることで体の疲れが取れたり、ストレスが解消したり、集中力や創造性が増すといった効果が得られる。
元々は悟りのための瞑想が、実は現代人のハードな生活にもすごくマッチしてるというのは面白いのだが…
「瞑想で運を良くしたい、人生を改善したい」
「瞑想すると何が変わるの?」
というふうに、ほとんどの人は悟りの意識になど興味はなくて、あくまで日常生活を充実させるためのツールとして瞑想に興味を持つと思う。
肝心なのは瞑想することではなく、現実世界でより良い人生を生きることだと誰もが当然に思っている。
もちろん、それはそれでいい。
でも身も蓋もない話だが、この世界で何を経験しても、成し遂げても、逆に何もせず無為に過ごしても、自分の本質(真我)には何の関係もないのだ。
もちろん、人は何かしらのテーマを持ってこの世界に生まれると言われるが、そもそもこの世界も肉体も全ては幻想なのだ。
この肉体が自分だと思っている限り、人はいつまでも現実の出来事に心を振り回されてしまう。
そして、いつかは肉体は滅びる。
つまり自分が滅びるということになる。
だから、生きているうちに夢を叶えるとか、子孫を残すとかして、この世界に何か爪あとを残さないと自分という存在に価値はないという考えになる。
でも、そもそもこの世界も肉体も自分の本当の本質とは関係ないというのが真理である。
それを体感で理解するのが瞑想の本来の目的なのだ。
つまり…瞑想は日常生活にも役立つけど、本当の目的は自己の本質に目覚めることである。
僕の好きなラマナ・マハルシという聖者はこんなふうに言っている。
「幸福とは何でしょうか?」
幸福とは真我の本性そのものである。
幸福と真我は別のものではない。世界のいかなるものごとのなかにも幸福はない。われわれは無知ゆえに、ものごとから幸福を得るものだと思っている。
心が外へ出ていくと、不幸を体験する。
心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻っており、真我である幸福を楽しむのである。
つまり我々の内側には、何か嬉しいこと、幸せなことを経験した時の幸福感の高まりが永遠に続いているということなのだ。
僕も最初は願望をかなえるために瞑想を始めたものの、今ではその真我の体験を掴み取るために毎日瞑想しているというわけだ。
道は険しいが^p^;
まあ、こういう人生観に傾くのは僕が人生に対して失望感を持っているからであって、それなりに幸せな人生を送ってきた人には理解しがたい話かもしれない。
そう考えると、あまり幸せな人生を送ってこなかったこと、そして本物の瞑想法と縁があったこと、全てはお膳立てされていたように思える。
僕が検索した10年前とは違って、今ではgoogleで「瞑想」と検索してもトップページには本当の情報は出てこない。
・目を閉じてただリラックスする
・呼吸に意識を向ける
・自分の想念を観察する
・マントラを唱える
・誰にも習わなくてもできる
・本に書いてあるやり方でやる
…よほどの才能がない限り、これらの方法で自分の本質(真我)を悟ることは不可能に近いと思う。
そういう意味では、いずれも僕が考える「瞑想」ではない。
瞑想を始めて10周年の日の朝、鮮明な夢の中で瞑想の師に会った。
普段ほとんど夢に出てくることはないし、10周年のことなど正直忘れていたのだが。
相変わらず手厳しい人だったけど、根底には愛を感じた。
わけあってもう実際に会うことはないと思うけど、多分今後も他の何かに乗り換えることなく、彼から学んだ瞑想を続けるつもりである。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません